温故知新  教会長  

  名張に腰を据えるようになり、ちょうど1年になりました。コロナ禍の影響もあり、大阪方面へ出る機会が本当に少なくなりましたが、たまに行くと、それはそれでふるさとへ帰る気分にもなります。
 大阪へ出る時は、ほとんどが電車なので、名張駅から乗るのですが、ここ30年で、駅のたたずまいも、ずいぶん変化したように思います。
 現在の名張駅が開業したのは、昭和5年、現在の近鉄大阪線(当時は参宮急行電鉄)が、大阪から伊勢に向けて開業した時で、今年で92年になります。しかし、それ以前から名張には鉄道がありました。

 鉄道好きの私には、そこにとても魅力を感じるものがあります。それは「廃線跡」です。現在の伊賀鉄道は、開業当時、伊賀神戸から西名張まで線路が延びていました。名張に集積された木材を、上野を経由して各地に運搬する目的で、多くの貨物列車が走っていたそうです。大阪線が開通した影響で、本線と重複する西名張〜伊賀神戸間の旅客が激減、貨物輸送も減少したこともあって、昭和39年10月に同区間は廃線になりました。
 今の西名張郵便局(西名張駅跡)、東町集議所(八丁駅跡)、蔵持市民センター(蔵持駅跡)が、当時駅であったこと、現在のアスピアに電車の車庫があったことや、東町の交差点から名張市民センターまで向かって農道になっている廃線跡を歩くと、往時を偲ぶことができます。(下欄参照)

 「昭和は遠くなりにけり」ですが、古いものや伝統を大切にしつつ、変化に対応する生き方も身につけなければならないと感じます。

 年を重ねると、どうしても頭が固くなりがちですが、かたくなになりすぎて、本当に大切なことを見落とさないように、「やわらか頭」になるトレーニングをしていきたいですね。

 巻頭言で紹介した、近鉄伊賀線の廃線跡について

  
 
 左の写真は東町交差点、名張街道から南西に延びる道で、線路がありました。
 右の写真は、左の写真の場所から、名張市民センター・朝日公園に向かって延びる道ですが、線路跡を感じられる場所があります。農業用水路にかかるコンクリート製の橋の下をのぞくと、鉄製の橋桁がそのまま残っているところもあり、当時が偲ばれます。道を歩きながらよく見ると、当時のバラストだったのでは?と思われるような石もあります。 

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